近況
ずっと親の扶養に入っているわけにもいかず、来年度からはようやく正社員としてどこかの企業で働くことになる。ポジティブな気持ちで居られるのは身近に「労働は悪くない」という先輩が何人かいるからだろう。
周囲を気にせず「そろそろ働こうか」と思い至るまで学生でいることがいいことかどうかは分からないが少なくともそういう選択ができた自分は相当恵まれている方だと思う。
某氏によると「(ホワイトなところで)正社員になった方がルーティーンが組めるし好きなことに回すお金も時間も増えるよ」とのことなので自分の選ぶ会社がそういうものであればいいと思う。何をするにもお金は必要なのでしっかり働いてしっかり稼ぎ、自分のやりたいことに使っていきたい。
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昔読んだ宮本輝の旅行記にチェコだったかハンガリーだったかで日本語を学んでいる学生と会うシーンがあったのを思い出す。
経済的な事情で日本への留学が叶わないという彼に対して
「阪大か神大には口が利くのでそこに留学するといい。金銭面は私が工面する」
と宮本輝が言う。
気まぐれで人に富を分配することの良し悪しは分からないが助けたい人を助ける手段の一つとしてお金を持っておくのは悪いことではないだろう。気に入った後輩にポンと投資をしている未来はいまいち想像できないが今まで人生の先輩からいただいた分を後輩に回せる余裕があるといい。
晩御飯をおごってあげられる程度には。
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そういうわけで最後の(最後じゃないかもしれないが)モラトリアムは専ら楽器を練習したり演奏したりゆったり中国語を勉強したりバイトをしたりというふうに過ごしている。
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この間サポートで出演したcolormalのライブ映像が公開された。
自分が演奏している映像を見返すといつもダメだったところが気になってもどかしくなるのだけど、今回のものはなんとなく「これが自分の現在地だ」と認めてあげられるような気持ちで見ることができた。
残せてよかった、撮影してくれた皆様ズパラダイスさんには足を向けて寝られないなと思う。
よかったら見てみてください。とにかく曲がいいしチームのいいバイブスも伝わると思います。
夜行バスに乗って
ハムエッグとたこ焼きの二択で悩んでいた。
そういう夢を見た。選んでいる途中で目が覚めた。
3時47分だった。
一通りSNSを確認して、インターネットの人達の生活を少し覗いたあと、「周りの多くが眠っている中で起きている自分」を思って少し面白くなった。
夜行バスに乗っている。
1日東京での用事を済ませ、明日には大阪に戻る。遊ぶ暇を作る器用さはなく、いつものごとく慌ただしい往復になった。
遮光のカーテンに顔だけをくぐらせて、窓から外を見てみる。夜の高速道路を走るバスから見る景色に特に新鮮さはなかったが、外のひんやりした空気の少しを感じることができた。
外はきっと寒い。窓ガラスとカーテンがその寒さを引き受けてくれているおかげで、それとエアコンのおかげで車内の私達は快適眠りにつくことができるのか。
そこまで考えたところでまた眠くなってきた。窓とカーテンとエアコン。他にも私の気づけない色々に対してまどろみながら感謝の念を送る。次に起きたときは大阪かもしれない。
どれだけ忙しくても移動や変化を楽しめるよう。明日の朝はハムエッグが食べたいと思う。
言葉に乗せて、音楽に託して
自分にとって憧れであり続けていたバンドが、
丁寧に作られた作品群の完結とともに活動を終了させた。
とても綺麗な終わりだった。
歌を歌うということ、バンドという形態で表現すること、それが孕む矛盾、自分達にしかできないこと。表現や創作を行う意味。
そんなことを真面目すぎるぐらい真面目に考えていたバンドだった。少なくとも僕からはそんな風に見えていた。
ポリシーを、美学を突き詰めること。彼らのような音楽性を持ったバンドが、こと大阪という場所でそれを行うことがどれだけ難しいか、僕にはある程度分かる。
だからこそ彼らを知った時は本当に嬉しかった。
音楽に対して、言葉に対して真摯に向き合う彼らの姿勢は自分にとって大きな励みだった。
彼らが残した作品はこれからも自分の刺激であり続けるだろうな。
「誰か一人でも来てくれるなら今日のライブを開催しようと思っていました。一人に向かって歌うので一人だと思って聴いてください。」
たくさんの人が集まった渋谷乙のフロアに向けて井口くんはこんなことを話していた。
僕達は共有する喜びを知っているけれど
音楽体験、表現に触れることって本当はとてもパーソナルなものだ。
あの時僕達の視線は同じ方向を向いて、同じ音楽を浴びていたけれど、
間違いなくそれぞれが”ひとり”だった。
僕もFLAKE RECORDSの試聴機ではじめて”Ten”を聴いた時と同じように、ひとりだった。
作品は残っていく。それはとても素敵なことだ。
イヤホンをつけるといつでも
彼らが彼らのファインダーを通して切り取った景色の一端を見ることができる。
それでも、それでもやっぱりなんだか寂しいな。
泣いてしまうよ、ずるいよ。
年輪が増えていくように
一人暮らしをはじめて5年ほど経つ。
相変わらず正しいリズムを刻むのは難しく、丁寧に生活を奏でることはもっと難しい。
最近、一人で過ごす夜を寂しいと思うようになった。今まで感じたこともなかったのに。
たまらなくなって友達とラインをする。通話をする。
昔は用件のないやりとりが面倒でしょうがなかったのに。
対面以外でも、他愛のない会話を愛しく思う、それが必要だと思うようになった。
人格が変わったというよりは色々な属性が付加されているような感覚だ。
昔の自分もちゃんと昔のままで、年輪が増えていくように新しい属性が自分を覆っていく。
大きく、重くなったと思う。動かすにはパワーがいる。気合いがいる。
面倒でも億劫でも、気合いを出して自分を動かしていきたい。
そうしてその先で待っている何かに触れてみたいのだ。
ワクワクするものはそういう気合いとは別のところで自分を動かしてくれる。
好きなものや好きな人の存在は大きくて重い自分をフワッと軽くさせて、行きたい場所に連れて行ってくれる。自分は周りのそういう存在に恵まれているのだと思う。
自分が作るものや自分自身も誰かにとってそう思われる理由の1つであったらいいな。
ナズナ
眠れなくなってしまったので何となく、大学でしていることについてでも書いてみようと思う。
僕は今大学で根っこの研究をしている。
もっと言うと根っこに関わる遺伝子の研究をしている。
本職の人には雑だと怒られるかもしれないが、
ものすごくざっくりと、やっていることを説明しようと思う。
植物に紫外線をあてて育てていると、遺伝子が傷ついて、中にはおかしくなる個体が出てくる。
「根っこが出ない」という「おかしさ」を持った個体に注目して
「どの遺伝子が壊れて、根っこが出なくなっているのか」
をまあ色々な実験で調べていく。
その遺伝子を特定できたとしよう。
仮に遺伝子Aと名付けてみる。
「遺伝子Aが壊れてしまうと根っこが出なくなる。
ということはAは根っこの形成において重要な役割を持っているのだ」
と分かる。
論文を完成させることをゴールとした場合、
大体ここまでが研究の1/4ぐらいだろうか。
残りの3/4は
「じゃあ遺伝子Aはどのように根っこの形成を
制御しているのか」
を調べることになる。
何にでもなれるポテンシャルを持った細胞が根っこになるまでには色々な過程があり、
その中でどの経路のどの部分で遺伝子Aが効果を発揮しているのか、を調べるのだ。
その辺りについて書くときりがない(根っこの研究、というとニッチなものに思われるかもしれないが過去の知見はたくさんある、
もちろん分かっていないことも多い、両方ある)し、
僕自身勉強できていない部分が多いので割愛する。
面白いのは遺伝子は冗長性というものを持っている場合が少なくない、ということだ。
要は同じ機能を持った遺伝子が複数存在している、ということで
1つの遺伝子が壊れていても、同じ機能を持った別の遺伝子が代わりに働くことで正常に育ったりする。
また、「根っこにならない細胞」では「根っこになってしまうのを抑える遺伝子(Bとする)」が働いているので、遺伝子Aが壊れた植物に対して「遺伝子Bも壊してやる」といった操作を行うと正常に根っこが出てきたりする。
遺伝子の壊れ具合によってもどんな風に育つかが変わってきたりする。
根っこひとつ取っても、それが出てくるまでに多くの遺伝子やらタンパク質やらの振る舞いが複雑に関わっているのだ。
修士の2年間で明らかにできるのはそんな複雑なネットワークのうち、たったひとつの経路のごく一部でしかなかったりする。それすら叶わない可能性だってある。
「何の意味があるの?」
というのはよく聞かれることだし、それを自分に問うことでつらくなることもあった。
最近はない。それがいい状態なのかどうかは分からない。
どうしてそれについて悩むことがなくなったのかも分からない。
時間が解決した、と言えるかもしれない。
あるいは忙しさや他の悩みに紛れてしまったのかもしれない。
ここまで書いたところでどう締めようか迷ってしまう。
こうすることで悩みが解決した、というのもないし、
1つの幹細胞が根っこの細胞になるまでの過程を人生になぞらえるのもちょっと気がひける。
国が出す研究費がどうとか言えるほど実情に詳しいわけでもない。
とにかく大学ではそんなことをしているという話。
何となく、ある人のブログを読んでいると書きたくなった。
完全に自己満足の文章だけど
誰かにとっての何かになっていれば嬉しい。
When you sleep
高校時代、音楽好きの親友がmixiの日記の最後に「今日の一曲」として記していたのがきっかけだったと思う。
YouTubeで何の気なしに聴いてみて、ハッとした。
良い悪いではなく、そのギターリフは自分が中学の頃によく聴いていたラジオ番組のエンディングで耳にしていたものだったからだ。
未知のものだと思って触れてみたものが、実は過去に慣れ親しんでいた音だったこと。
伏線が回収されるような強い感動を覚えた。
大学に入って、音楽好きの先輩から「シューゲイザー」という言葉を教わり、同時にMy Bloody Valentineを含むたくさんの音源を聴かせてもらった。
ああ、When you sleepの!
あのギターの音像や埋もれたボーカルのことをシューゲイザーと呼ぶのか。
海外の音楽に触れて間もない自分にはその音がとても新鮮に感じた。
My Bloody Valentineを聴くたびに、彼らに影響を受けた音楽を聴く度に、そんな記憶に引っ張られる。
友達が、尊敬する先輩が、好きな人が、好きなミュージシャンが、知らない人達が、
東京でMy Bloody Valentineを見ている。
あの人達はどんなきっかけでマイブラを知ったんだろう。
生で聴く轟音は、そういう記憶を思い起こさせるんだろうか、それとも掻き消してしまうんだろうか。
そんなことを考えながらタイムラインを眺めている。
話
クララズの「話」という曲が好きだ。
2番サビに
「ああ言葉じゃない
けど
言葉じゃないと」
というラインがあって、
自分のような人間はそれに深く感動してしまう。
自分の気持ちを100%言葉に乗せることは不可能で、
相手に届くときはそれがさらに耳や頭といったフィルターにかかっていく。
それでもソーシャルアニマルである僕達は何かを伝えようという営みをやめることはない。工夫を凝らして自分ではない誰かに語り掛けるのだ。
それはもどかしさをともなうことだけど、とても意味のあることなのではないかと思う。
届かないものに手を伸ばすようなことだけれど、知性を駆使して肉迫する様はとても美しいと感じる。
僕が好きな音楽はどこかそういう一面を含んでいるような気がする。
歌は
「咲いた花 どんなのか 教えてよ」
と続く。
どれだけ面倒で、どれだけ不格好でも
花を見て感じたことを大切な人に自分の言葉で伝えたいと思う。
同じように
伝えようとしてくれるならとても嬉しい。